(10)春は光とともにやって来た



 気温はさほど上がらぬものの光は既に春のもので、2月は“光の春”と呼ばれている。冬至からUターンした太陽の日差しは、すでに11月中頃と同じ強さに戻っている。しかし、朝の冷え込みは相変わらずで、フィールドに8時に着いたが、細かいざらめのような角張った霜が緑の増した草原にびしっと降りている。水分を含んだ畑の縁の土には霜柱が、浅く水が残る田んぼには薄氷が張って、冷たく閉ざされた厳寒の様相は相変わらずである。しかし、風さえなければ10時を回ると、太陽の光で汗ばむ程の陽気となる。
 今日は二十四節気の雨水である。一月の中旬過ぎから、それまで晴天続きだった首都圏も、周期的に低気圧がやって来て天気が崩れ雪や雨になることが多いが、“もう雪になることはありません雨になりますよ、徐々に水が温んで来ますよ”といった季節の分岐点なのである。雨水から最高気温が10度を越える日も多くなる。いよいよ毎週末のフィールド通いが楽しくなる。本格的な春は光とともに、すぐそこまでやって来た。 こんな光の強さを地面の下でいち早く感ずるのか、太陽の申し子のような真ん丸いフクジュソウやフキノトウ、クロッカスが地上に現れた。山里へ行けば、ザゼンソウやセツブンソウも咲いていることだろう。先日、フクジュソウで有名な調布市にある神代植物公園で写真を撮っていたら“小さなヒマワリが咲いている”と、女の子が嬉しそうな声を上げていた。いつでも子供は正直なものである。真っ黄色で真ん丸い花と言ったらヒマワリを連想するのは仕方がない。ヒマワリはかつて南米のインカ帝国で太陽の神のシンボルとして崇められていたように、ギラギラと照りつける夏の太陽の子供たちだが、フクジュソウは落葉した木々の梢から降りそそぐ、柔らかいスポットライトが作り出す早春の太陽の子供たちである。『福寿草家族のごとくかたまれり』と福田蓼汀の句にあるように、外気はまだ寒いが、木漏れ日の中に肩を寄せ合って励まし合うかのように群がって咲く姿は、まるで家族のようである。フクジュソウは、日本とアジアの北東部のものだが、地中海沿岸を故郷とするクロッカスも、ヨーロッパでは純白のスノードロップとともに春を告げる花としてフクジュソウのように親しまれているのだろう。
 今年は二度も雪が積もったので、毎年撮影に出かける近所のフキノトウも一週間ほど遅れて地上に顔を出した。フキノトウのほろ苦さを味わって近づいた春を先取りしようと、首都圏平地のフキノトウは地上に顔を出すとすぐに摘み取られてしまう。春になるとギフチョウを探しに出かける山菜が豊富な新潟県では、至る所に無数に生えるフキノトウは、ツクシと同様に見向きもされないようである。学生時代に過ごした信州で、岐阜県からやって来た同じ部の女性が、キャラブキや砂糖でまぶしたお菓子を料理して食べさせてくれたが、日本全国、これほどまでに親しまれている山菜はないのではなかろうか。北海道や本州北部には1mにもなるフキの変種であるアキタブキが生えているという。大きなフキノトウが顔を出すのであろうか。このようなたわいもない好奇心から旅に出ることが出来たら楽しいだろう。
 谷戸の小川のネコヤナギの綿毛に包まれた芽は膨らんで、日当たりの良い暖かい処にあるものは、すでに独特の花が開いている。雑木林の小道脇や谷戸田と雑木林が接する部分に多いニワトコのブロッコリーのような蕾も膨らみ始め、こちらの方は早くも葉が開き始めている。首都圏平地で一番活動の早い木である。どう屓目に見ても立派な木とは見えず、果実も赤く熟すが食べられず、役に立たない木の代表格とずっと思っていたのだが、材を薄く切って骨折などの薬用に用いるのだそうである。何処を見回しても、生命あるものの活動の季節はもうすぐそこまでやって来ている。












<写真>顔を出したフキノトウ、武蔵丘陵森林公園のフクジュソウ、相模原公園のクロッカス、小石川植物園のニワトコ、イヌコリヤナギ栃木県星野のザゼンソウ、栃木県星野のセツブンソウ、舞岡公園水車小屋のネコヤナギ、。

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