毎春、桜が咲く前後からゴールデン・ウィークが始まるまで、午後になると必ず風が強くなる。フィールドで出会った女性が“春は大好きなのだけれど、風が吹くから困るわね”と言っていたが、花や蝶の撮影に際しても、お手上げの状態となる。待てども待てども、花の揺れが止まらないのである。また、この頃だけにしか現れないモンシロチョウを小さくしたような大きさで、上翅の先端に雄はオレンジ色、雌は灰色の紋を持つツマキチョウを発見しても、風に吹かれてたちまち何処かに消え去ってしまう。とても可憐で美麗なツマキチョウを知らない方が多いが、年に一回だけの発生であるためと、春の強風が観察を妨げているのかもしれない。
この時期、谷戸田では春一番に羽化してくるトンボであるシオヤトンボが発生する。羽化したては写真のように雄も雌も麦藁色で、成熟すると雄は青白色に変身する。成熟した雄は一見すると誰もが知っているシオカラトンボに見えるから、親子連れが間違って“あっ、シオカラトンボ”等と声を上げているのも頷ける。羽化したてのシオヤトンボは身体も羽もとっても弱々しく、春の強風に飛ばされて絶命してしまうのではないかと思う程だが、伸び始めた草の茎にしっかりと抱きついて強風をやり過ごしている。しかし、春の強風は時には異常とも言えるほど強いこともある。まだ柔らかな落葉広葉樹の新葉や各種の野の花がそれこそ引き千切れんばかりに激しく揺れ、ツマキチョウやシオヤトンボはどうしているのかと心配になる。こんな日に丘の上に立って遠望すると、何処かで大火事が発生しているかのごとくに空が赤褐色になる。畑や空き地の土や砂ばかりでなく、遠く中国大陸から黄砂も飛んで来ているのである。
午後になると風が吹くという4月の気象条件を頭に入れて、午前中に、とある多摩丘陵の谷戸にある農家の裏山に咲くクマガイソウを撮影して来た。“とある”などという秘密めいた言葉を使うのは、持ち主の方があまり世間に知れ渡るのを好んでいないからである。私が“こんな見事に咲いたクマガイソウは初めてですよ。テレビ局や新聞社が取材に来ませんか”と質問すると、人の良よさそうな農作業で日に焼けた顔に笑みを浮かべて“お金にもならないのに人がたくさん来て荒らされるだけだから、すべて断っているんだ”とのことである。ここに咲くクマガイソウは手入れは行っているものの、もともとそこに自生していたものであるという。たくさん増やそうとしても他に移そうとしてもだめで、今まで何度も盗掘されたが根づかなかったに違いないと言っていた。なるべく環境を荒らさないようにと瞬時に撮影を終わるつもりでいたが、やや強くなった風にてこずらされてしまった。帰りがけに“良い写真が撮れました。また、来年必ず来ます”と、深々と頭を下げたことは言うまでもない。
クマガイソウの見られる農家の周辺では、ナシの花に続いてリンゴやカラタチの白い花が美しく、谷戸田に通ずる農道脇には散り始めたモミジイチゴとクサイチゴに変わって、ニガイチゴが咲き出している。谷戸を詰めた雑木林のやや湿った半日陰のような北斜面には、可憐なイチリンソウやニリンソウが咲いている。イチリンソウは多摩丘陵では珍しくなったが、ニリンソウは、こんな所にと思うほど開発が進んだ緑地にも、ほんの数株程度と僅かばかりだが残っている場合も多く、近くの緑地でじっくり探し求めて欲しい。
<写真>新緑の雑木林、多摩丘陵のクマガイソウの群落、川崎市黒川のリンゴの花、横浜市新吉田町のナシの花、カラタチ、クサイチゴ、シオヤトンボ、ニガイチゴ、多摩丘陵のニリンソウ、多摩丘陵のイチリンソウ。
(18)風吹いて黄砂舞う