(31)何処を見渡しても日本の夏
梅雨明けからずっと雨も降らず、気温は35度前後で推移しているので、あらゆる植物が萎れ気味である。しかし、潅漑が行き届いた水田の稲だけは、夏の太陽の下で眩しい程に青々と逞しく成長している。午後になると谷戸田を取り囲むの雑木林が作るどす黒い陰が田圃に掛かり、また、雑木林の向こうに白いもくもくと入道雲が成長する。田圃の畦には盆花のミソハギが風に揺れ、所々に植えられているハスのほんのりと赤味がさした気品溢れる純白な花は、どんなに邪まな者だって賛同するであろう美しさである。農家の庭先には暑さこそ出番とばかりに、青空をバックにサルスベリや韓国の国花であるムクゲが色とりどりに咲き始め、花壇の花は何といってもダリアが豪華で印象的だ。農家に隣接する畑では大事に育てている桃が色づき始め、スイカもだいぶ大きくなって食べ頃となった。
異常な猛暑が続いているが、雑木林の小陰に純白のヤマユリが咲いている。ここだけは地面が焼けるような日差しもむっとする高温も無く、涼しい風が吹いている。時折、真っ黒なクロアゲハやクリーム色の紋が印象的なモンキアゲハが風に乗ってやって来て、ヤマユリの甘い蜜を吸っている。いよいよ日本の夏がフィールドの各所に到来した。真夏の自然観察は熱中症が心配で推奨できないものの、藪蚊対策を万全にして木陰を選んで行動すれば快適である。近年、モウソウチクの猛烈な繁殖が雑木林を破壊すると問題になっているが、下草の生えない竹林は風の通り道で、真夏の高温時だけはとても有り難い。木立木陰を渡る風は、ビルが乱立する都心部や住宅地より涼しいのは言うまでも無いことだが、蝉時雨の中で吹く心地よい風は、日本の夏の臭いをたっぷりと含んでいるから堪らない。軽井沢の別荘よりもそんな風の吹く農家の縁側の方が私には魅力的である。
かつて私の住んでいる地域ではこの時期“虫送り”という行事があった。地区によって違いはあるものの、農家総出で松明を持って近くの神社に集まり、祝詞を上げたりお囃子をしたり酒を飲んだりした後に、松明に火を灯して行列を作って虫を送って行ったのだそうである。無事に稲が活着して、後は虫と台風の害がなければ豊作となるのだから、農薬の無い頃、今から思えば幼稚とも思えることに縋り付いたのである。私の住んでいる地域では、どのような囃し言葉で虫を送ったのかは定かでないが、安富和男著『害虫博物館』三一書房刊によると、長崎県五島列島では“後生よ、後生よ、実盛どん、後生よ”と、また、和歌山県串本では“実盛どのは、よろずの虫を、お供に連れてお通りなされ”と唱えながら虫を送ったのだそうである。この実盛とは平氏の斎藤別当実盛のことで、源氏の手塚太郎光盛と戦った時に稲株に躓いて倒れて討たれた時に“われの死後、亡霊必ず悪虫と変じ、行末永く源氏の世を呪い、五穀の成就を妨げん”と言い残したのだそうである。きっと私の住んでいる地域の虫送りの囃し言葉にも“実盛”が登場していたに違いない。
農薬が盛んに使われるようになって、タガメやゲンゴロウといった大物が消えて寂しくなったが、農家の方々が丹精込めて作っている農作物が、虫害や台風害に遭わずに立派に成長し収穫されんことをいつも願っている。人体や動物に害が無く害虫だけに効果的な農薬の開発は難しいが、生態系を知り尽くした上での天敵等を導入した、なるべく農薬を使わない複合的な虫害対策は着実に進んでいるに違いない。いつの日が虫送りという行事ではなく、虫招きという行事が何処でも見られるようになるだろう。
<写真>サルスベリ、ムクゲ、モモ、ブドウ、ダリア、ハス、ミソハギ、キキョウ、ヤマユリ、アスター、ヒャクニチソウ、ルリタマアザミ、オオハンゴウソウ、ノウゼンカズラ、モミジアオイ、ムギワラギク。