月遅れのお盆がやって来た。農家の門の脇に先祖をお迎えし、また、見送るための土盛りに花を活けるためのマダケを切った花受けが差し込まれている。迎え火や送り火の夜にはナスやキュウリで作った牛馬が飾られることだろう。水田脇には盆花であるミソハギが咲いていて、その花期の長さには驚かされる。
 農家の庭先やちょっとした空き地にはムクゲやフヨウ、モミジアオイが咲き、農家の屋敷を囲む梢からミンミンゼミやアブラゼミがうるさいくらいに鳴いている。雑木林の縁にはキツネノカミソリの鮮やかな珠赤が目に染みる。道路はすっかり舗装され農家の建物は現代風になってはいるものの、昔と変わらぬお盆の風景を各所に見つけてほっとする。
 かの有名なファーブルの実験、セミが鳴いている近くで大砲を2度も撃ったにもかかわらず、セミは驚きもせずに鳴き続けたという壮大な実験によって、ファーブルはセミは耳が聞こえないとは断言出来ぬものの、つんぼの大声という諺があるように、セミは耳が遠いのではないかという思いを抱いたようである。しかし、もし耳が聞こえなかったり遠いのなら、セミがなぜ鳴くかという問いに合理的な説明は成り立たない。鳴いても同種のセミが聞き取れないのだから無駄な行為としか言いようがない。聞く耳を持たぬ人にしゃべりかけるようなものである。これに対してファーブルは合理的な目的はないものの“私は生きていますよ”という喜びを、セミは鳴いて表現しているのではと結んでいる。私たち現代人は何かのためにという理屈を付けたがるものである。人のために、自分のために、お金のためにといった具合である。しかし、何の目的も何の見返りも無い行為が、何処かにあってもいいのではなかろうか。
 とは言うものの生存競争の激しい自然界に於いて、無意味なものの存在、無目的な行為があるとは到底同意しかねる。セミはなぜ鳴くのかという問いに対して、こちらに美味しい食べ物(木の汁)がありますよと仲間に知らせるため、雄と雌が巡り合う確立を高くするため、適度な生息空間を確保するためなどと説明がなされているが、明確な回答とはいえないようである。日本人にとって最も身近な虫であるセミ、そして夏の風物詩の代表であるセミの鳴き声、21世紀に入ったというのに解明されぬ謎が多いようである。やっぱり、そんな肩の凝る理屈を求めることなしに、ファーブルの言うように“僕たちの大好きな夏がやって来て、とっても嬉しいです”と鳴いていると思った方が、何だかとっても正解に近く素晴らしいと思うのだが、いかがだろうか。
 セミと言うと樹木が多い所なら何処にでもいそうだが、雑木林にはヒグラシを除くとあまり数は多くない。むしろ手入れの行き届いた面積の広い公園などの方が多い。また、近年の雑木林の管理放棄によってアズマネザサが所狭しと生い茂り、各種の雑木林の林床に生育する野草はもちろん、各種の昆虫が減少しているのだから、根から木の汁を吸って成長するセミだって以前より住みやすいはずはない。かつて雑木林は、各所で何べんも触れたように、幹や枝は炭や薪に、落ち葉や下草は肥料に利用され、農家の方々のみならず私たちの生活に多大な恩恵をもたらしていたのだが、石油やガスといった化石燃料や化学肥料の出現によって顧みられなくなって久しい。これに農業の担い手である若者が、他に仕事を求めて流失してしまったのだからなおさらのことである。どうしたら生物の多様性を有する手入れの行き届いた雑木林を維持して行けるかが、所有権も含めて大きな課題だが、市民参加の活動が行政を動かして、各所ですでに始まっている。











<写真>アブラセミの抜殻、丘の上のクヌギの木、アブラセミの羽化、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシ、ニイニイゼミ。
(34)木立ちの中の合奏団



<アブラセミの羽化>







<様々なセミの仲間たち>

トホシカメムシ/ツノアオカメムシ/エビイロカメムシ/アカスジカメムシ


クサギカメムシ/ウズラカメムシ/ホシハラビロヘリカメムシ/キバラヘリカメムシ


マルカメムシ/オオヘリカメムシ/ホソヘリカメムシ/クモヘリカメムシ


ベッコウハゴロモ/スケバハゴロモ/ミミズク/マルウンカ


ツマグロオオヨコバイ/ツマグロヨコバイ/モンキアワフキ/シロオビアワフキ


テングアワフキ/トビイロツノゼミ/ツマグロスケバ/テングスケバ





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