(47)谷戸に藁塚が立った


 11月に入ってずいぶんと日が短くなった。いつもと変わらぬ時間に起きてやって来たはずなのに、定期的に通っている谷戸に降りてみると、小高くなったわずかな部分にしか陽が当たっていない。いつもなら谷戸の半分近くまでが陽に照らされているはずなのに、太陽は落葉前の雑木林に遮られてを照らすまで昇っていないのである。
 2週間前には各所で見受けられた稲の掛け干しもほとんど見当たらなくなった。きっと先週の週末に稲は脱穀されたのだろう。それに変わって藁塚が作られている。とは言ってもほんの小さいものが僅かにあるだけで、子供のころに見たことのある大きなものがたくさん並んでいるわけではない。それでも収穫のための農作業が終わった晩秋の早朝の寂しい風情をかもし出すのには充分である。かつては脱穀の終わった稲藁は、縄をなったり、筵を作ったり、家畜の寝床や飼料に使われたのだが、今ではほとんど利用されなくなって、粉々に粉砕されて土に返されるようである。
 谷戸の昆虫たちもだいぶ少なくなった。羽化したてのヒメアカタテハが新鮮な衣装で飛び回っていたり、モッコクの葉上で日向ぼっこをしている幼虫のまま落ち葉の下で越冬するアカスジキンカメムシの幼虫が、秋の斜光に照らされて宝石のように光っている以外、オオカマキリもハラビロカマキリもヤマトシジミも疲れきったような古びた衣装となった。もうすぐ太陽が雑木林に隠れようとする午後の陽の中で、谷戸の田んぼの棒杭等にハネナガイナゴが抱きついて暖をとっているのが印象的で侘しい。
 谷戸の湿地に生えるアシやオギ、少し高くなった所に生えるススキもすっかり白くなって、もうじき風に乗って旅に出るのだろう。続古今和歌集に『武蔵野は月の入るべき嶺もなし尾花が末にかかる白雲』と大納言通方が歌っているごとく、武蔵野の景観は古くから萱原がどこまでも続くものとして捉えられて来たようである。私がフィールドとする多摩丘陵は、武蔵野とは言えぬものの、何処を見渡してもこのような広大な萱原は見当たらない。また、足田輝一著『雑木林の博物誌』新潮社刊によれば、江戸時代の地理学者である古川古松軒の『四神地名録』や国木田独歩の『武蔵野』や徳富蘆花の著書にも、武蔵野は雑木林が何処までも続いていると書いてあるという。また、多くの武蔵野を歌った和歌は、一度として武蔵野の地を踏んだことがない大宮人が作った観念化されたものでもあるという。以上のようなことから、冒頭の古代からの武蔵野観は間違っているのではないか、と多摩丘陵の雑木林を歩きながらいつも気になって仕方がなかった。その問いに対して足田氏の著書では明確な答えは得られぬものの、かつて関東武士団が盛んに馬の生産育成を行って、各所に広大な牧(牧場)があったようである。事実、私がフィールドの一つとして良く行く小山田緑地は、かつては小山田の牧と呼ばれていたとある。            
 そんな思いを抱いていたら、品田穣著『都市の自然史』中央公論社刊で、昭和7年刊の『大東京遊覧地誌』に“東京天文台は、武蔵野第一の薄の名所である。晩秋で、尾花のさかりの頃は、あの付近一帯の沢も小川も丘も、見るかぎりは尾花の海となる。それが、落ちかかる武蔵野の大きな夕日のなかに、鏡のごとく銀糸のごとく輝ききらめく壮観は、思わず声をあげずにはいられないほどだ。本館のバルコニィから展望した西部武蔵野原のながめも、まったく雄大だ”と書かれているという。国木田独歩は渋谷区のNHK放送センターのある辺りに、徳富蘆花は世田谷区の千歳烏山に住んでいたというから、武蔵野と言っても南のはずれに当たる。以上のことを踏まえて想像すると、武蔵野の中心部から埼玉県にかけての各所に広大な薄の原があったことは確かなようである。いづれにしても、私のフィールドとしている多摩丘陵は、緩やかに起伏し遠くに丹沢や奥多摩の嶺が見え、雑木林の梢の先にかかる白雲である。











<写真>藁塚立つ谷戸、晩秋の棚田、ヤマトシジミ、アカスジキンカメムシの幼虫、ウラナミシジミ、オオカマキリ、ハラビロカマキリ、コカマキリ。

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