(50)紅葉黄葉が何処でも一杯
冬至まで後一ヶ月となり、だいぶ寒い日が続くと思ったら、雑木林に囲まれた畑にうっすら白いベールのような霜が降りた。いよいよ冬が首都圏平地にまで忍び寄って来たようだ。何よりも大好きなはずのカメラ片手の里山巡りだが、寒くなると朝早く起きるがさすがに辛い。しかも冬至間近の日没は早く、午後になると陰影のきつい写真撮影に不適当な赤味を帯びた斜光となる。一日中柔らかい光に恵まれる初夏から初秋にかけての曇り日は写真撮影に最高であったが、晩秋の曇り日は暗くて寒い。こんなわけでフイルムの消費量はぐーんと少なくなった。しかし、この時期だからこそ、霜が降りるごとに色づきを深める紅葉黄葉が絶好の被写体となる。スケールこそだいぶ異なるのだろうが、遠くに行かなくとも近くの公園や雑木林で思う存分に味わえるのだから、小春日和の日には出かけるしかない。
先日、自然度が相当高い横浜市が管理している昔ながらの谷戸を、そっくりそのまま保存しいる公園で初老の洋画家に出会った。絵を売って生計がたつと言うのだから素晴らしい。私が一生懸命に写真撮影に励んでいるのを見てか話が弾んだ。洋画家は絵筆を休めて「広いとは言えない公園だが、見る人にとっては無限の宝があるに違いない」と、私が常日頃感じていることを端的に表現して言うので嬉しくなった。また、海外に長く住んでいて最近帰国したらしく「風光明媚な甲信越等にアトリエを開かなければだめかと思っていたが、身近でも充分に絵になる所があるのが分かった」とも言う。相当昔の話になるが、ある小さな出版社の社長さんが「瞬間が永遠になるような日々を重ねて行きたい」と言っていた。それは“何処で何をしているかということよりも、いかにして毎日を充実して暮らしているかの方が重要である”ということのようで、私のネイチャーフォットーの極意も、永遠を一分の何十分、何百分の一かのシャッター速度でフイルムに写し撮ることにあると思う。洋画家との出会いから、ますます感覚を磨いて身近なフィールドで素晴らしい“瞬間が永遠になる写真”を撮影して行こうと心を新たにした。
ところで“秋の夕日に照る山モミジ、濃いも薄いも数ある中に、松を彩る楓や蔦は山の麓の裾模様”とあるが、里山や自然度の高い公園では、ケヤキ、クヌギ、コナラ、エノキ、コブシ、ヤマザクラ等の黄葉が中心となる。しかし、場所によってはケヤキやヤマザクラも赤味が強くなり、モミジ、カエデ、ニシキギ、ドウダンツツジなどの紅葉する樹木も人工的に植栽されているので色とりどりで美しい。特に早朝の霞がかかった中での風情は特別で、こんな身近な公園にも幽玄なる清澄な世界があるのかと驚くに違いない。どうしてこのような美しい紅葉黄葉が起こるのかと不思議に思うが、落葉樹は落葉する前に葉柄の基部に離層というものが出来て、これを境にして物質の移動が困難となり、葉で光合成された糖分が移動できずに葉に貯まり、やがてアントシアンなどの色素に変わって行くために起こるのだという。要はこれからやって来る厳しい冬を、自らの葉を落として耐え忍ぶための生理的な現象から来ているのだ。すなわち紅葉は落葉の前段階で、冬がやって来ることを我々に知らせるシグナルと言うわけである。
それにしても春の芽吹きまでしばしのお別れという時に、こんなに着飾って我々に別れを告げるという自然の妙味には、ただただ感心するばかりで感謝一杯の思いが浮かび上がって来る。このところすっかり寒さが定着し、暖かい季節は懐かしい遠い過去となり、長い厳しい冬の後の遥か未来となった。春の芽生えと晩秋の紅葉、季節の分かれ目に里山といえどもこんなに素晴らしい変化が見られるのだから、私の趣味も皆様にお勧めできる上等なものであると確信する。
<写真>舞岡公園のモミジの紅葉、晩秋の茅ヶ崎公園、公園のコブシの黄葉、クヌギ林の黄葉、カキの黄葉、ヤマザクラの黄葉、トウカエデの落ち葉、イチョウの黄葉、カツラの紅葉、シラカシの黄葉、ツタの紅葉、ツタウルシの紅葉。