箱根の山は天下の嶮と歌われているように、伊豆、箱根を経て富士山へと続く地帯は、人間だけでなく多くの生物にとっても越すに越されぬ難所となっている。富士山は約8万年前に噴火して箱根や伊豆と共に、西南日本からの生物の侵入を妨げる壁となり、噴火後に日本列島に侵入した生物は、この一線を越えられないでいるものも少なくない。その好例として、静岡以西に分布するコウベモグラと関東を中心に生息するアズマモグラの話が著名である。コウベモグラは富士山噴火前から住んでいたアズマモグラを駆逐しながら東進したが、土の中だけしか移動できないので、急峻で岩だらけのこの一線を越えられないのである。すべての生物の分布を、富士山噴火に求めることは暴挙であるが、昆虫の世界においてもこの一線は、非常に重要な問題のようである。
クロコノマチョウというジャノメチョウ科の蝶がいる。チョウと言えば陽の光や花が大好きと相場は決まっているが、ジヤノメチョウ科の蝶は日陰が好きである。その中でもクロコノマチョウは、ほとんど陽が射さない林の中が好きで、このため一般の方々にはなじみの薄い蝶かもしれない。今までクロコノマチョウは箱根の山を越えられない蝶として、首都圏に住む蝶の愛好家にとって垂涎の的であった。図鑑によると1955年に静岡県に多発して全県に広がったようだが、箱根の山がそれ以上の東進を遮っていたのである。しかし、1990年代に入って遂に箱根の山を越えて神奈川県に登場し、横浜市の雑木林にも普通に見られるようになった。何と35年間の歳月を必要としたのである。
去年の夏、所要で大阪府の郊外に出かけた。昆虫大好き人間にとって関東地方には少ない昆虫に出会えるチャンスとばかりに、時間を取って付近の雑木林を探索した。目的はチョウではツマグロヒョウモン、トンボではチョウトンボ、セミではクマゼミであった。何とラッキーなことか、それとも関西では当たり前なのか、これら全ての昆虫に出会えたのである。
そして帰宅した週の週末、横浜市のフィールドへ出かけてみると、何と箱根の山を越えられなかったツマグロヒョウモンが飛んでいたのである。しかも3頭も。後日、新聞紙上で神奈川県下におけるツマグロヒョウモンの多発が報じられていた。
クロコノマチョウもツマグロヒョウモンも、どちらも東洋熱帯起源の蝶である。関東登場が遅れたのは、箱根の山以外に気温の問題もあったのであろう。コウベモグラと異なって、日陰が好きなクロコノマチョウは無理かもしれないが、日向が好きなツマグロヒョウモンなら箱根の山でも簡単に越えられそうである。やはり地球は温暖化しつつあるのだろうか。人間の未来のためにも、両種の逞しい分布拡大のエネルギーのなせる結果であると思いたい。
<写真>コナラの樹液に来たクロコノマチョウ、ツマグロヒョウモンの裏面、クロコノマチョウの食草の一つであるジュズダマ、クロコノマチョウの蛹、ツマグロヒョウモンの雌、ツマグロヒョウモンの雄、ウスイロコノマチョウ、ムラサキツバメ。